「努力する主人公」は本当に20年間失われていたのか?
はじめに
先日、こんな記事を読んだ。
この記事の筆者によると、「1990年代後半に『生まれながらに特別な存在』の主人公がブームになり、2011年以降からは『甘やかし』ブームが到来したため、努力する主人公は見られなかった。しかし2010年代後半になると、『努力する主人公』が帰ってきた」ということらしい。
え?
ええ??????
この結論はにわかとはいえ幼い頃からアニメを見ていた私にとっては疑問どころかツッコミどころ満載のものであった。
ここからは、疑問点を上の記事と対応させながら書いていくが、あくまでチラシの裏程度の個人のお気持ち表明なので話半分に見ていって欲しい。
①1990年代後半〜2000年代前半
ルフィは「約束された成功」だったのか?
この年代というと、ちょうど私が生まれた頃〜幼稚園の頃に放送されていたアニメとなる。
ワンピースやポケモンといった、現在でも放送されている「国民的アニメ」ともいえる作品が数多く存在した時代だ。
中でもワンピースは全世界で4億6000万部もの発行部数を記録しているということもあり、
一時代を築いたコンテンツといえよう。
ここで、ワンピースのアニメのOPの冒頭で流れるナレーションを振り返ってみよう。
富・名声・力、この世のすべてを手に入れた男、海賊王・ゴールドロジャー。彼の死に際に放った一言は人々を海に駆り立てた。「俺の財宝か?欲しけりゃくれてやる。探せ!この世の全てをそこに置いてきた!」男達はグランドラインを目指し夢を追いつづける。世はまさに大海賊時代!
海賊の中で「財宝」を見つけ出せるのはほんの一握りの者だけであり、海へ出たからといって必ず「財宝」が見つかるわけでもない。つまり、「海賊=最初から成功は約束されているわけではない」ということを匂わせている。ある意味ギャンブルみたいなものだ。
しかし、それでも夢を追い続けるのが海賊のロマンである。そしてそれはルフィの「海賊王に俺はなる!」という有名なセリフにも受け継がれている。
確かにルフィは"海賊王"から(シャンクスを介しているとはいえ)帽子を託されており、全身がゴムのように伸縮する「ゴムゴムの実」の能力を持った「特別な存在」であるが、それだけでは「約束された成功」は手に入らない。
実際、「海賊王に俺はなる」とか言っときながら20年経ってもいまだに海賊王になってないしな……
それが裏付けられるセリフがこちら。
(まあ実際にはこれだけで済まされてしまったとはいえ)なーんだ、ルフィもちゃんと努力してんじゃん。
とはいえ、展開的に最終的にはルフィは「海賊王」となるであろう存在なので、成功のためには才能と努力両方が必要だよねというおはなしでした。
「現実直視」な魔法少女アニメ
もう1つ、この年代を語る上で欠かせないアニメがある。
それが、「おジャ魔女どれみ」だ。
1999〜2002年に放送されたいわゆる「魔法少女アニメ」で、主人公のどれみ(ピンクの子)がひょんなことから「魔女見習い」になり、魔法を使ってトラブルを解決することによって成長していくという物語である。
なぜ一見「魔法」といったファンタジーなものであるにもかかわらず「現実直視」かというと、巻き起こるトラブルの内容がまさに当時の社会で(そして今でも)問題視されているものだからだ。
例えば不登校の児童が登場したり、交通事故で実母を亡くしたため「母の日」のイベントに反発する児童がいたりと、厳しい現実と向き合う子どもたちの姿がこれでもかというくらいリアルに描かれている。よく朝っぱらからこんなに重たいアニメやってたよな……
それでも、彼ら・彼女たちの悩みや葛藤を解決するため、魔法を使って奔走するどれみたちの姿には、大人でもグッとくるものがある。
②2010年代前半 ——「友情」と「努力」だけで「勝利」できる時代は終わった
「どうにもならない現実」と戦う覚悟
冒頭で上げた記事では2010年代は「『甘やかし』ムーブメントの到来」と言われているが、私はそれに異議を唱えたい。
確かに2011年に東日本大震災があり、多くの人が苦しい思いをしたこともあって「『特別な存在』でなくても、生きているだけで褒められたい」という気持ちを軸にした作品もあるだろう。
しかし、あくまで個人の印象であるが、そういった甘やかされ願望を叶える作品というよりはむしろ震災以降「理不尽な状況に立ち向かう作品」が目立つようになった気がする。
その中でも代表的なのが、「進撃の巨人」であろう。
巨人が街を襲い、人類は巨人に食われていく。その中で生き残った主人公たちが調査兵団に入団し、巨人を「駆逐」するといったストーリーだ。
物語の中で、主人公エレンは目の前で母親が巨人に捕食されてしまうシーンを目撃する。そこに現れた巨人とは圧倒的な体格差、力の差があった。
この絶望的な状況に、人類はどう立ち向かっていくのか。そこには「友情」と「努力」だけではどうにもならない、しかし向き合わなければならない、残酷な現実が待っている。
だからといって、「努力しない」といった方向には決して進んでいない。戦略や個人のポテンシャルを生かして最大限「努力」、いや、心臓を捧げているのだ。
部活もので描かれる「努力」のかたち
2010年代になると、いわゆる「部活もの」のアニメがヒットするようになった。
黒子のバスケ、ちはやふる、弱虫ペダル、ハイキュー!!……全部列挙するとキリがないのでこのへんにしておくが、各作品に見られる特徴としては、「主人公もその仲間も『努力』によって成長する過程が丁寧に描かれている」ということである。ただ単に努力したというだけではダメで、きちんと「成長」しなければならないのだ。
結果として勝利が掴めなかったとしても、次に繋がるヒントがある。人間同士の生々しいぶつかり合いを通して、また一歩次の段階へステップアップしていく。だからこそ、キャラクターに感情移入でき、まるでキャラクターと一緒に成長しているような気分が味わえる。
もちろんこの年代以前の作品にも成長過程を丁寧に描いたものはあるだろうが、「ヒット」したといった現状を鑑みれば、「努力」の結果としての「成長」が重要なファクターになっているという結論になるだろう。
③2010年代後半 ——「なろう系」の台頭とジャンプの新時代
やっぱり努力したくない!?
2010年代後半に入ると、「なろう系」と呼ばれるいわゆる「異世界転生もの」がヒットを飛ばすようになる。
元記事では「ハメフラ(乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…)」の説明を2010年代前半の項でしていましたが、これも「なろう系」ですね
現実世界でトラックに轢かれて異世界に転生し、チート的な能力を獲得して最初から敵をバッサバッサとやっつけていく……といったテンプレートが有名だ。
これはあくまで私の憶測なのだが、2010年代後半は高校生〜社会人がメイン層のアニメが格段に増加したことによって、「努力したってどうにもならない、現状は変えられない」「アニメの中でもどうにもならない現実と向き合うのは嫌だ、せめてアニメの中だけでも努力しないでめっちゃ強い能力欲しい、夢を見させてくれ」といった願望が反映された(?)のが「なろう系」の台頭であろう。
「約ネバ」「鬼滅」—— ジャンプ復活の兆し??
とはいえ、やはり「努力する主人公」をきちんと描いてくれるのが週刊少年ジャンプである。
この年代に入ると、「NARUTO」「BLEACH」「銀魂」といった今までジャンプを牽引してきた作品が次々と連載終了を迎え、一時期は「最近のジャンプつまんない」と言われてしまう有様だった。
そんな中で希望の光となったのが、「約束のネバーランド」(約ネバ)と「鬼滅の刃」だ。
前者は「孤児院育ちの主人公が、仲間が『鬼』に食われるところを目撃したことで自分たち人間が『鬼』の食料となっていることを知り、孤児院を脱出する」といったストーリー、後者は「主人公が家族を『鬼』に殺されたことで、鬼と化した妹や仲間とともに『鬼狩り』に出かける」といったストーリーである。これは偶然の産物なのかどちらも「鬼」といった「人間の力ではどうにもならない存在」に立ち向かうといったストーリーになっている。
これは2010年代前半の項で挙げた「どうにもならない現実」と戦う覚悟とリンクしており、その流れを汲んだ作品といえる。一見斬新に見えるかもしれないが、「約ネバ」「鬼滅」で描かれる「努力」のストーリーは、過去の作品の蓄積があってその確固たる土台の元に築かれたものだ。
おわりに
チラシ半分で書き進めたつもりがレポートが書けそうな文字数になってしまった
結論を言うと、「『努力する主人公』は20年間失われていたのか?」の答えはもちろんNOであり、それぞれの作品でそれぞれのキャラクターがしっかりと努力のかたちを見せている。
そしてそれがキャラクターに感情移入するきっかけになり、見る人にとっての「青春」を形作っていく。……
要するにアニメについて語るにはいろんな作品を見る必要があるってことですね。もっとマシな文章が書けるように精進します。